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ハノーファーからの帰り道、ベルゲン・ベルゼン収容所の標識を見つけたので、反射的にハンドルを切って、アウトバーンを降りた。小雨の降るどんよりとした空の下、寒々とした国道を走る。なかなか辿り着かない。あとで地図を見て分かったが、道は間違ってはいないもののもっと近くの出口でアウトバーンを降りるべきだったのだ。かなり時間をロスした。暗い空の下、白樺が寂しげにひょろひょろと並んでいる道をひたすら走り、冴えない村々を通り過ぎて行った。お陰でアンネの終焉の地に向かうんだというしんみりとした気持ちにはさせてもらえたが。
1時間近く走ってようやく辿り着いた。記念館手前の駐車場には数台の車が停まっていた。辺鄙な地なのにちゃんと見学者はいるんだなと感心した。ここの展示は充実しているし、ドキュメンタリーフィルムの上映もある。季節がよくなれば見学者ももっと多くなるに違いない。 ![]() ベルゲン・ベルゼン収容所(Bergen-Bersen, 以下BBと略す)はナチ時代の強制収容所ではあるが、他の収容所とはその意味合いが少々異なる。 BBはまず1940年、フランスとベルギー人600人の捕虜を収容するために建てられた。1941年には21,000人ものソ連人戦争捕虜が収容される。仮設で寒さがしのげず1941-42の冬には1万4千人が、飢えと寒さと病気で亡くなった。 1943年以降は、外国に抑留されたドイツ人を解放するための交換捕虜、特にユダヤ人交換捕虜(Austausch-Juden)の一時滞在場所となる。やがて地理的な面で、当方の収容所に向けての中継地点の役割を担うこととなる。アウシュヴィッツのような大量殺人施設であったわけでもないが、長期滞在向けのしっかりとした設備でもなかった。多くの捕虜が冬の間に寒さのため亡くなったことは、ソ連人捕虜の死からも明らかであろう。ナチ将校たちはかなりの皮肉をこめてBBのことを、“回復の収容所(Erholungslager)”と呼んだ。もちろん、実際には“死の収容所(Toteslager)”であったことは言うまでもない。 戦争末期の1944年になると、他の収容所に収まりきれないユダヤ人たち、特に病気のユダヤ人たちがやみくもに送り込まれて来る。8月以降は特にアウシュヴィッツ・ビルケナウの女性ユダヤ人が一時的に送り返されてきた。その1944-45年の冬は悲惨だった。食料もなく、寒さを防ぐだけの施設でもなかった。さらにチフスが蔓延した。マルゴーとアンネ姉妹は44年10月にアウシュヴィッツからBBに輸送されてきて、この地獄のような冬を経て3月に息をひきとった。ちょうど60年前の今頃の話である。その数週間後にイギリス軍が収容所を開放した。 イギリス軍が撮影したフィルムでみる映像はすさまじいものだった。山盛りの死体(どれもやせ細って骨と皮だけになっている)が巨大な穴の中に放り込まれて燃やされてゆく。まさに地獄絵だ。いやそれ以上の悲惨さだ。 フィルムを見ていると、中年の紳士が嗚咽をあげて泣き始めた。それもすさまじく、普通じゃない号泣だった。一斉に我々他の観衆の涙腺も決壊してしまう。皆涙がこみあげてこみあげて堪らなくなる。それにしても、その紳士の泣き方は異常なくらいだった。特別に感受性豊かな人だったのか、それとも、、、? 雨があがり少し青空が見えてきたので、記念館を出て収容所跡へと歩いた。白樺の林を切り開いた広大な土地だ。収容所跡といっても建物は一つも残っていない。疫病が蔓延したため、英国軍が全てを焼き払ったのだ。収容所があった長方形の跡地を、小高く盛り上げており、どこに建物があったかが分かるようになっている。それらの一つ一つには、「1945年2000人が死んだ」などと書かれた石盤がはめ込まれている。 その上にはエリカ(ヒース)の花が植えられている。この辺り一体はリューネブルガーハイデと呼ばれ、8月になるといっせいに赤紫のエリカの花が咲き乱れる地域なのだ。もちろんこの3月にはまだ咲いていないが、写真でみるかぎりは収容所の跡にくっきりと、赤紫の絨毯が敷かれていた。これほど死者を鎮魂するに相応しい花があるだろうかと思う。 ![]() マルゴーとアンネ・フランクの墓石があった。妹のアンネばかりが有名だが、お姉さんのマルゴーもアンネの日記を読めば素晴らしい少女だったことが分かる。彼女もやはり隠れ家で日記を書き続けていた。もしも現存していればアンネの日記以上の文学作品となっていたに違いない。墓石に黙祷を捧げる。勿論、実際には何万の遺体と一緒に二人は焼かれたわけだからこの墓は記念碑にすぎないのだけれど。 雨があがったとはいえ、まだ寒い3月にこんな広大な荒野を歩いているとさすがに体が冷えてきた。そして心も冷え震えてきた。ここに来たことは一生忘れないだろう。 関連記事:アンネ・フランクセンター in ベルリン
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